長い年月を経て完成した姫路城は、その石垣の造り方も時代とともに進化しました。
羽柴秀吉の築いた城の縄張りを残しながら、池田輝政が今有る天守台を造り、本多忠政が西の丸を増設・拡張という3度にわたる築城の大きな流れのなかで、石垣も工期によって3期に分類され、それぞれ積み方などの特徴が異なるようです。
更に完成した後、江戸時代に補強修理した箇所もあります。また、お城としての本来の役目を終えた明治以降に行われた復旧作業で、オリジナルとは違う姿に変わってしまった場所も有るようです。
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城郭研究センターが出しているパンフレットなどでは、現存する石垣を構築及び修築の時期の違いによって5期に分類しています。
どこの石垣がいつの時代の物なのかは、そのパンフに詳しく解説していますので、それを手に入れて見学するのもいいと思います。少し古い(2007年)ですが、研究センターのホームページで公開している地図も参考になります。
以下、撮影した写真の中から少し紹介します。
上山里
上下二段の下段が第1期(羽柴秀吉の築城時)に分類される物で、野面と呼ばれる自然のままの石材を、布積み崩しという方法で積んでいます。
2013年12月から翌年の3月にかけて、下段石垣が修理されました。車門のように解体はせず、石が抜けた箇所に新たな石材を補充したり、石の割れ目の拡大を防ぐために樹脂を注入するなどして補強する方法が採られた。
同時に木も伐採されたので、二段になっている様子がよく見えるようになりました。石垣の上の太鼓櫓南方土塀に狭間が無いのは、本来そこには二層の櫓が建っていました。
石垣とチの櫓 |
修理中 |
下段石垣上 |
下は上記の場所から東側に回りこんだ太鼓櫓南方土塀です。2014年、ここも生い茂った木で土塀が隠れてしまっていたのですが、伐採されて姿を現しました。ただ、木の幹だけが乱立する石垣は少し異様でした。
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大天守
形や大きさは様々ですが、少し加工した石(打込み接ぎ)を綺麗に乱積みされています。
タの渡櫓
西の丸城内側にあるこちらの石垣も二段になっていて、上は池田氏、下は本多氏時代と考えられています。ただ、昭和9年に崩壊してしまい、修理した際にオリジナル性を少し損ねたそうです。
備前丸
算木積みで積み上げられた角部分が扇の勾配と呼ばれる美しい曲線を描いています。傾斜角度は下の方は65度で上は70度としています。
カの櫓
西の丸の城外側南面にあるカの櫓と土塀の石垣。第3期に分類される本多氏による拡張工事で築かれたこの石垣も、算木積みで扇の勾配を見せる角の稜線が綺麗です。
帯郭櫓・帯の櫓
城内で最も高い、23.32m。昭和に修理済みです。
人面石
「ぬの門」脇の石垣は、左右に二つ並んだ丸い石を目とする人の顔のように見えて、侵入者を睨んでいるように感じます。
補強石垣
小盛りに石を積んで後の石垣がふくらむのを押さえています。後は第1期と2期(池田時代)が隣り合っている場所だそうです。
リの一渡櫓・リの二渡櫓
こちらも第1期と2期の石垣が隣り合っており、その境の継ぎ目が見えます。
車門の石垣が修理されたときに撮影しました。
転用石
石臼や石仏など、別の使われ方をしていた物が再利用されている場所が多くあります。
写真の石棺は、嘗て備前丸の東側石垣に積み込まれていたもです。姥ヶ石は乾小天守の北面に、灯籠ははの門の基礎にそれぞれ有ります。そして、チの櫓の下にも五輪塔などが多数置いてあります。
刻印
見学する際は、石垣に刻まれた模様も探してみてください。
ここでは2か所だけ紹介していますが、普段見学できるエリア内だけでも多くの種類の刻印を見ることが出来ます。
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