姫路城は、標高46mの姫山とその西側にある鷺山を中心とする平地の中の小高い丘の上に石垣を積み上げて、天守や櫓を築いた平山城です。
天守の北側を起点に、左回りに螺旋型の3重の濠で城と周囲の城下町を取り囲む総構えの城郭構造でした。
城下町絵図(17世紀末)
姫山に建つ天守と鷺山の西の丸との全景が美しい白壁と相まって、白鷺が羽を広げて舞う姿にたとえられる外観から別名「白鷺城」(はくろじょう)とも呼ばれています。もっとも、白鷺城と呼ばれる理由は諸説あります。
また、白鷺城の読みが「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とすることがありますが、地元では前者が学校名や校歌に使われていて一般的と思います。
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姫路城の始まりは室町時代、1346年に赤松貞範が姫山に築いた小さな山城だそうです。その後、歴代の城主たちが改築・改修をかさねていくなかで、姫路城は三度その外観を大きく変えます。
いわば、今の姫路城は四代目で、城主の池田輝政によって、安土桃山時代の末期、1601年(慶長6年)から8年の歳月をかけて建てられたものです。大阪の豊臣氏と西国の外様大名をにらむ拠点としたい徳川氏の思惑が大きく働いて出来た城です。江戸時代に入って、1618年(元和4年)に西の丸が増築されて現在の形がほぼ完成しました。この時の城主は本多忠政でした。
長く続いた江戸時代、戦にまみえることがなかった姫路城は、明治時代になると軍用地となります。その際に三の丸の建物などが取り壊されて軍の施設が建てられました。天守閣群は残されたましたが放置され傷みがひどかったようです。このままではいずれ崩壊すると思われたが、陸軍の中村重遠大佐らの努力もあって姫路城は保存されることになり、1910年(明治43年)に明治の大修理が行われました。
昭和になって姫路城は国宝保存法により国宝に指定され、1935年(昭和10年)から昭和の修理工事に着手。その後始まった太平洋戦争では、空襲を受けた際に白い城は目立つとしてカモフラージュ用の網が被せられていました。下のような、その当時の様子を撮影した写真が見つかったと2013年3月に市のホームページで紹介していました。
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お城周辺は1945年(昭和20年)の2度のアメリカ軍による空襲で焼け野原になりました。がしかし、姫路城は奇跡的に戦火を免れたことから築城当時の姿を現在まで残す事になります。
終戦後、その修理が再開され、1956年(昭和31年)から天守閣群の解体復元工事「昭和の大修理」が8年の歳月をかけて行われました。これにより生まれかわった姫路城は、1993年(平成5年)に世界遺産にも登録されたことから、今後も修理を重ねながら将来にわたって今の姿を残していくことになりました。そして、築城から400年目となる2009年から5年余りの歳月をかけて大規模な改修工事が行われました。
姫路城の連立式天守閣群とその渡櫓は国宝に、その他周辺の化粧櫓など建築物が重要文化財に指定されています。また、中濠以内は特別史跡に指定されています。
そして、1993年12月11日にユネスコの世界遺産リストにその名が登録されました。その理由と登録範囲についてまとめています。
その他解説と資料
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